ラクリモーソ
「ラクリモーソ」について、用語の意味などを解説

lacrimoso(伊)
ラクリモーソ=涙ぐんで。悲しく哀れに。
発想記号(発想標語、曲想標語)のひとつ。
「涙」の物理的描写と内向的感情
ラテン語の lacrima(涙)を語源とするラクリモーソ(lacrimoso)は、音楽用語として「涙ながらに」「悲しげに」と訳されるが、その核心は単なる悲嘆の感情表現にとどまらず、物理的な「涙の滴下」や「視界の滲み」を音響的に描写しようとする写実性にある。ラメントーソ(lamentoso)が声を上げて泣く「慟哭」という外向的なエネルギーを持つのに対し、ラクリモーソは頬を伝う涙のように静かで、個人的かつ内向的な「湿り気」を帯びている。
演奏家がこの指示に接したとき、イメージすべきは激しい号泣ではない。むしろ、悲しみが極まり、言葉にならずにただ涙だけが溢れてくる状態、あるいは祈りにも似た静謐な悲哀である。音色は透明感がありながらも、水分を含んだような潤いが必要とされ、決して乾いた音を出してはならない。
モーツァルト『レクイエム』における「涙の日」
この用語を音楽史上最も象徴的なものにしたのは、間違いなくヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの『レクイエム』におけるセクエンツィア(続唱)の終曲「ラクリモーサ(Lacrimosa)」である。ラテン語の典礼文「Lacrimosa dies illa(涙の日なるかな)」に基づき、最後の審判の日に罪人が裁きを受けて涙を流す情景を描いたこの曲は、ラクリモーソという概念の具現化そのものである。
モーツァルトは、ヴァイオリンパートに2音ずつスラーで結ばれた音型(ため息のモチーフ)を与え、さらにそれを休符で区切ることで、断続的な「啜り泣き(sobbing)」を表現した。また、12/8拍子というゆったりとした複合拍子は、重苦しい足取りと、とめどなく流れる涙の持続感を同時に演出している。ここでは、ラクリモーソは個人の悲しみを超え、人類全体の原罪に対する普遍的な贖罪の涙として昇華されている。演奏者は、一人の人間の感情を表現するのではなく、天上の視点から降り注ぐ慈雨のような、浄化の涙を音にする意識が求められる。
「ため息」と「滴り」の修辞学
バロック時代から続く音楽修辞学(ムジカ・ポエティカ)において、ラクリモーソ的な感情を喚起するための定型的な技法が存在する。その代表が、短二度下行する「ため息のモチーフ(Seufzer)」の多用である。強拍に置かれた不協和音が弱拍で解決するこの動きは、物理的な溜息や、涙がこぼれ落ちる瞬間の重力を模倣している。
また、スタッカートやポルタート(音を切りながら保つ奏法)を伴う旋律線は、涙で声が詰まる様子や、滴り落ちる涙の粒を象徴的に描く。ピアノ曲においてラクリモーソが指示された場合、伴奏音型をあえて均等に弾かず、雨だれのようにポツリポツリと配置したり、右手の旋律をわずかに遅らせて(ディレイさせて)弾くことで、涙で視界が揺らぐような視覚的効果を聴覚的に再現することが可能となる。
演奏解釈:ヴィブラートと音色の潤い
弦楽器奏者にとって、ラクリモーソはヴィブラートの質が問われる試金石となる。速く浅いヴィブラートは神経質な緊張感を生むため不向きであり、振幅が広く、かつ速度の変化を伴うヴィブラートが好まれる。これは、感情の高ぶりによって喉が震え、声が不安定になる生理現象を模倣するためである。しかし、常にかけ続けるのではなく、あえてノン・ヴィブラート(直音)から入り、徐々にヴィブラートを深めていくことで、堪えていた涙が溢れ出すプロセスを表現するなど、極めて繊細なコントロールが必要となる。
管楽器においては、音の輪郭(エッジ)を柔らかくし、息のスピードを抑えることで、温かみのある音色を作る。アタック(発音)の瞬間にアクセントをつけず、音が空間から滲み出てくるような発音を心がけることで、ラクリモーソ特有の「濡れた」質感が生まれる。
悲劇の中にある美と救済
ラクリモーソが描く世界は悲劇的ではあるが、そこには必ず「美」が存在する。涙を流すという行為自体が、心の重荷を下ろし、精神を浄化(カタルシス)する作用を持っているからである。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲や、ショパンの夜想曲などに見られるラクリモーソ的なパッセージは、絶望の淵にありながらも、その悲しみを美しいものとして肯定しようとする芸術家の意志を感じさせる。
演奏者は、悲しみに溺れて音楽の形を崩してはならない。涙で濡れた瞳を通して見る世界が、普段よりも美しく輝いて見えるように、ラクリモーソの音楽もまた、透徹した美意識によって支えられていなければならない。聴衆がその演奏を聴いて涙するとき、それは悲しいから泣くのではなく、悲しみがこれほどまでに美しい結晶となり得るという事実に心を打たれるからである。ラクリモーソとは、悲しみを宝石に変える錬金術のような指示語だと言えるだろう。
「ラクリモーソとは」音楽用語としての「ラクリモーソ」の意味などを解説
Published:2025/12/27 updated:
